ファシズムの正体(要約)

ファシズムの正体

要約、ちゃんと買って読もう!


 本書の目的は、ファシズムの思想と論理を理解し、それを国内外の情報分析に活用する力を身につけることである。ではなぜ、今ファシズムについて学ぶ必要があるのだろうか。それは世界各国でファシズムの進展する可能性がある今後、高まってくるからである。現代の世界情勢を分析するうえで、ファシズムの論理を知らないことは致命的といえます。しかし、現代の日本で出版されるファシズム関連の書物の多くは、全く役に立たないものばかりです。たとえば、現代の日本において「ファシズム」という言葉は、多くの場合、自由主義、共産主義を排撃する「極右の国家主義的世界形態」と考えられています。しかし、本来のファシズムとは、第一次世界大戦後のイタリアに登場した「国家ファシスト党」の政治運動や思想を指す言葉です。それは一言でいえば、失業・貧困・格差などの社会問題を、国家が社会に介入することによって解決することを目指すものです。

新・帝国主義の時代

私は、これまで2008年以降の世界を「新・帝国主義」の時代として分析してきました。一般に、帝国主義とは「1870年代以降の、巨大企業が国家と結びついて海外進出や植民地の拡大を図る。列強の経済的・軍事的な膨張政策の事を意味します。歴史を振りかえってみると、帝国主義の勃興には「覇権国家の弱体化」が伴いました。かつてのイギリスが覇権国家だった時代は、自由貿易の時代でした。しかし、イギリスの力が弱くなると、ドイツやアメリカが台頭しはじめ、やがて群雄割拠の帝国主義の時代に突入しましす。その後、二回の大戦とソ連崩壊を経て、20世紀はアメリカの圧倒的な覇権国家として君臨するようになりました。しかし、2001年の同時多発テロと2008年のリーマンショックを経て、アメリカの弱体化が明らかになると、今度はロシアや中国が軍事力を背景に、露骨に国益を主張するようになりました。その結果としておとずれたのがかつての帝国主義を反復する「新・帝国主義」の時代なのです。

 こうした新・帝国主義の時代には2つの異なったベクトルの引っ張り合いが繰り返されます。1つはグローバル化の発展で、

 もうひとつは国家機能の強化です。19世紀後半もまた、グローバル化の時代でした。19世紀は「移民の世紀」と呼ばれており、第一次世界大戦までの100年間の間に新大陸へ渡ったヨーロッパ人は、およそ6000万ののぼると言われています。多くの人が移動すれば当然、国境を越えた資本の移動も活発になる。グローバル化の進展により、欧米列強はやがて子かと独占資本(市場と生産を独占的に支配する資本)が結び付き、力による市場拡大と植民地化を目指すようになりました。この構造は冷戦崩壊後の世界も同様です。グローバル経済が浸透した結果、先進国の国内では格差が広がり、労働者の賃金も下がっていきました。規制緩和や労働市場の柔軟化が進み、雇用が不安手になると、それは結果として社会不安へとつながっていく。そうした社会不安が国内に増大する時、国家は自らの機能を強化していきます。つまり、グローバル化の果てに訪れる新・帝国主義の時代に国家が機能を強化していくのは、ある意味必然といえる。

グローバル資本主義に対する3つの処方箋

 この新・帝国主義時代の国家を、私たちはどのように理解するべきでしょうか。こうした問いかけは「ファシズムと、どのように付き合っていくか」という問題を置きかけることができると私は考えます。なぜかーーーそれはグローバル資本に対する処方箋は歴史上3つしかないからです。

 1つ目は外部から収穫する帝国主義の更なる強化です。しかし、国家同士の利害が衝突すれば、それは戦争となだれ込む危険性を伴います

 2つ目は共産主義革命です。資本主義システムを打倒することで、社会問題を一挙に解決する方法ですが、この処方箋は失敗に終わったことは歴史により証明されています。

 3つ目が、本書のテーマであるファシズムです。

ファシズムとは本来「国家の介入によって国民を統合し、自由主義的な資本主義が生み出す問題を克服していこうとするもの」です。その意味では、福祉国家のイメージと極めて近いと言えます。おそらく先進国の多くは、今後、帝国主義とファシズムを織り交ぜることで、グローバル資本主義の弊害を乗り切ろうとしていくでしょう。しかし、それは排外主義的な民意を醸成するという大きな危険が孕んでいる。だから私たちは、今こそファシズムについて理解を深めなければならないのです。

真理は人を自由にする

 たとえば、トランプ政権はファシズムにどのくらい親和的なのか。安倍晋三政権下の日本はファシズムへと接近しているのか。こうした問いに対して、日本の言論界は明確な説明をほとんど与えることができていません。その理由はファシズムの概念をきちんと捉えられていないからです。ファシズムの周りには、ファシズムと混同して語られるいくつかの概念があります。民主主義、、純血主義、ナショナリズム、全体主義、ナチズム、独裁などがそうです。その違いを理解しないと、上記のような問題を正確に把握することができません。たとえば聖書には、「真理は人を自由にする」という言葉があります。不自由の束縛から目を背けているだけでは、苦境は解消されないどころか、ますます追い詰められていくばかりです。いったい何が自分に不自由をもたらしているのか。そのメカニズムを深く理解し得た時、初めて人は「制約には【外部】が存在する事を知り自由の感覚を得る」ことができます。日本のファシズム理解が浅い原因のひっつとして、近代イタリア史とファシズムの展開が十分に理解されていないことが挙げられるでしょう。別の言い方をすれば、ナチズムや戦前の日本の軍国主義などをファシズムの典型としてイメージしてしまうのです。そこで、本書では、近代イタリアの歴史にまでさかのぼり、ファシズムが生まれる過程を詳細に追うことで、ファシズムの思想性や論理、にまでさかのぼり、ファシズムが生まれる過程を詳細に追うことで、ファシズムの思想性や論理、問題点を明らかにしていきます。資本主義と共産主義どちらも乗り越えようとしたファシズムの内存的論理とはどのようなものなのか。それを知ることで、新・帝国主義のゆくえを展望する一助とすることが本書の目的です。

イタリア統一までの歴史

 イタリア・ファシズムを理解するためには、その背景となるイタリア史の知識が不可欠です。しかし、高校の教科書では、イタリア史はわきに追いやられ、十分な記述があるとは言えません。そこで、第一章ではファシズムの内在的論理に入る準備ととしてイタリア統一からファシズム基までの歴史の流れ概観していきます。また、それを踏まえた上で、ファシズム体制を樹立するまでのベニート・ムッソリーニの行動を分析していきましょう。イタリアが国家を統一したのは1861年ですから、明治維新とだいたい同じ時期です。

 分裂が続いていたイタリアでは、1848年の二月革命後、「青年イタリア」を指導してきたマッツィーニも参加するローマ共和国が建設されたが、フランス軍に倒された。また、サルデーニャ国王もイタリア統一の障害となっていたオーストリアと戦ったが敗北した。

「青年イタリア」というのは、イタリア統一と共和制樹立を目指した秘密組織です。その前身となる「カルボナリ党」衰退後のイタリア統一運動の中心を担った組織で、1831年にジュゼッペ・マッツィーニが結成しました。ナポレオン一世による支配が終わるとイタリアはまた依然のようにオーストリアの支配下に置かれました青年イタリアは、そのオーストリアの支配に反発して、自由主義的な独立運動を展開したのです。サルデーニャ王国とは、1720年に成立した、近代イタリア王国の前身となった国家です。北イタリアのピエモン地方とサルディーニャ島を支配し、当時のイタリアの中で最も強かった国だと言われています。このサルデーニャ王国が、19世紀後半にイタリア統一のリーダーシップを取っいきました。教科書には次のように説明されています。

 ”まもなくサルデーニャ王位についたヴィット―リオ=エマヌエーレ2世のもとで、自由主義者のカブールが首相となって鉄道建設など近代的社会基盤の整備を推進した。その後、サルデーニャはナポレオン3世と密約を結んだうえで、1859年オーストリアと開戦した。この戦いに勝ったサルデーニャはロンバルディアを得て、翌60年、サヴォイアとニースをフランスゆずるこで中部イタリアを併合した。さらにこの年、「青年イタリア」出身のガリバルディが両シチリアを占拠し、これをサルデーニャ王に譲った。”

 こうして1861年3月にイタリア王国が成立し、イタリアはようやく国民国家の体裁を整えていくようになりました。その後、1866年にはオーストリア領だったヴェネツィアを併合します。1870年にはローマ教皇領も占拠して、国家統一がほぼ完成しました。

土方成美の「ファッショズム」

 当時のイタリアでは国民的な自覚というものがまだ希薄で、思想的にも様々な分野がありました。こうしたファシズム以前の社会的背景は、1932年に刊行された、土方成美の「ファッショズム」(岩波文庫)が参考になります。土方成美という人物はいまやほとんど知られていませんので、ここで簡単に触れておきましょう。土方成美は1890年生まれの経済学者・財政学者です。土方は「統制経済」という概念を日本で初めて提唱したことで知られています。統制経済とは国の経済活動に対して、政府が強制的・組織的に統制・干渉を行う経済体制です。統制経済が初めて実施されたのは、総力戦となった第一次世界大戦中のヨーロッパにおいてでした。その後、1930年代の大恐慌時代には失業や不況といった社会不安が増大していくなか、資本主義を救済するための政策として行われていきます。当時の統制経済はアメリカのニューディール政策に見られるような経済・社会改革によって景気回復を目指すものと、日本やドイツのような戦時経済化を目指す統制経済の二つに分かれていきました。

国家と教会の対立

 【ファシズム】のなかで土方は「イタリア統一と言うのは、他国の戦争を利用した結果であって、イタリア国民の間に国民的自覚は成立していなかった」と評しています。もともとイタリアは中世以来、政治分裂が続く地域でした。これはイタリアが、長く都市国家だったことが影響しています。都市国家とは、いくつかの都市とその周辺地域が政治的に独立していながら「つのまとまった形態をなしている国家の事です」。イタリアはミラノやフィレンツェなど、独立した都市が政治的権限を持つ都市国家として発展してきました。そのため「イタリア国民」という意識が、ほとんど存在しなかったのです。また、立憲君主的な政治体制をとりましたが、国王や王室の権威が強くありませんでした。それというのも「初代イタリア国王はサルデーニャ王国の王が横滑り的に就任したので、イタリアの全国民にとっては縁遠い物であった」からだと土方は主張します。国民に信頼されていないのですから、国王に求心力がないのですから、国王に求心力がないのも当然です。さらにイタリアでは、教会と国家のもんだいでも多くのトラブルを抱えていました。それは「ローマ問題」と呼ばれる、1861年の統一から1929年にかけて起こったイタリア王国とローマ教皇庁の政治的な対立です。当時のローマは、カトリック教会のトップである教皇が主権者として支配する「教皇領」でした。つまり、1861年の統一時点では、実はローマはイタリア王国に含まれていなかったのです。しかし1870年に起こった普仏戦争でフランスが敗北すると、教皇を守っていたフランス軍がローマから撤退しました。するとイタリア王国は、教皇領を強引に占領し、ローマを王国の首都にしてしまったのです。ヴァチカンに閉じ込められてしまった教皇は、これに強く反発しました。自分は「ヴァチカンの囚人」であると宣言し、カトリック信者が国政選挙に参加することを禁止する回勅(ローマ教皇が世界のカトリックに伝える組織上・信仰上・教義上の問題についての通達)を発したのです。こうしてイタリア政府とヴァチカンは断交状態になりました。これについては土方は次のように説明しています。

 ”1860年以来教会国家はすでに没落過程にあり、国王の命令並びに人民投票によって、教会の人民は二つの教会(サン・ピエトロ並びにラテラノ)及び二つの王宮(ヴァチカンならびにガンドルフォ(かつてローマ教皇の避暑用の山荘であったガンドルフォ城)に限定させられてしまった。イタリア愛国者にとっては、教会は考えるべき最も非愛国的なものであった。教会より世俗的な権力をはく奪するに就いては、新教徒、秘密結社、共和論者、社会党すべてが協力した。カトリック教会と国家が対立するのは論理的な必然性があります。カトリックの語源はギリシャ語の「カトリコス」で、これは「普遍的」「万人に共通の」を意味します。普遍的・万軍には共通的なもので、最初から民族という枠を超えている。だからカトリック教会というのは、民族主義(ナショナリズム)と相性が悪いわけです。

 次にイタリアの議会にも、目を向けてみましょう。社会学者の新明正道は「ファシズムの社会観」(岩波文庫)のなかで、イタリアには英仏に見られるような有力政党が出現せず、「少数党派の分立する形態が生じた」といいます。そのため、イタリアの議会政治ではなく、「トランスフォルミズム」(変異主義)」と呼ばれる、場当たり的な多数派形成の政治が常道になる。つまり、その都度の状況に応じて首相に都合のいい政党と組むのです。

 その結果として、1876年から1922年にいたる間に内閣の更迭することが31回に及び、個々の閣員の交代にいたっては更に甚だしいものがあった。かくの如き貫行がイタリー議会の弱化に導いたことは勿論である。それは国民的な大政党を有することなく、従って政党支持の形成を確立することができず、政治をして動揺的不安的なものをもたらしたのである。

ムッソリーニの不人気

 ここでイタリアの歴史と、ムッソリーニの生い立ちを重ね合わせてみることにしましょう。ムッソリーニに関しては、ロマノ・ヴィルピッタ著【ムッソリーニ】(ちくま学芸文庫)が非常に本質を捉えているので、これを参考にしたいと思います。著書のヴィルピッタは長らく京都産業大学で比較文化論・ヨーロッパ企業論などを教え現在は名誉教授を務めている人物です。まずは、この本のスタンスを見ておきましょう。序章でヴィルピッタはムッソリーニの評価について、次のように述べています。

 ”なぜかムッソリーニは戦後日本でに人気のない人物である。例えば、同じファシズムの人物であるヒトラーに関する書物が多く出版されているのにムッソリーニに関する著書は少ない。悪玉にされても、ヒトラーは一流の人物として評価を受けているが、ムッソリーニは二流とみなされている。しかも、これは日本に限った現象ではない。イタリア以外では、大体ムッソリーニの関心が高いとは言えない。評価されるどころか、滑稽な存在とさえ見られている。おそらく彼を滑稽視することについて、かのチャップリンの映画「独裁者」の影響が働いているのだろう。世代が変わり、ムッソリーニが歴史的人物となって、当時の生身の印象は記憶から消え、その変わり「独裁者」に登場するあのナポロニと実物が入れ替えられてしまったのではないだろうか。しかしナポロニもセンスの悪いカリカチュアに過ぎない。フランスの歴史学者でムッソリーニの伝記を著したピエール・ミルザが指摘しているように、多くのフランス人が抱えている「カーニバルのカサエル」としてムッソリーニのイメージはイタリア人に対する侮辱であり、しかも非現実的である。彼ああのような人物であったとしたら、20年間の間、自国民の支持を得海外でも評価される人物にならなかったであろう”

 チャップリンの映画「独裁者」では「ナパロニ」というムッソリーニを模した独裁者が登場します。ナパロニはムッッソリーニそっくりの軍服を着て、アドフルヒトラーを模した「ヒンケル」のところにやってくる。ヒンケルは背が低いので、ナパロニを見下すために、ナパロニ用に座面の低いイスをように座面の低いイスを用意しました。ナパロニがそこに座ると、自分の頭の位置がヒンケルより低いのに気付いて、彼は机の上に座りだす。このようにチャップリンの映画ではナパロニは「頭の悪い権力者」というイメージで描かれます。しかしそれならば「なぜムッソリーニは20年も権力を維持できたのか」という説明がつきません。この本は、ステレオタイプなムッソリーニのイメージを払しょくします、実際にムッソリーニはどのような人物だったのか。ヴルピッタ次のように評しています。

 ”彼は行動の人でありながら、知識人でもあった。師範学校を卒業してからは正規の教育を受けていないが、独学で幅の広い教養を身につけていた。特に哲学が好きで、十九世紀末、二十世紀初めの恩潮に詳しかったし、文学、音楽、芸術にも造旨が深く、当時のイタリアの新鋭の知識人と交わっていた。トクニダンスンツィオ、未来派のノマリネッティ、観念哲学者のジェンティーレ、音楽家のプッチーニとは交友関係にあり、シュペングラーと親交を結び、パレートにも評価された。社会党時代には、グラムシやサルヴェーミニのような左翼インテリとも交際を持ち、彼らにも評価されたのであった、ヒトラーやレーニンに比べれば、彼の知的な背景ははるかに幅広く、多様であった”

 ファシズム提唱者であるムッソリーニの知的水準が高いこと同様に、実はファシズムの論理的水準は非常に高い。ナチズムは「ドイツ人を中心とするアリーア人は優秀である」という荒唐無稽な神話で世界を支配しようとしましたが、イタリアのファシズムはこのようなフィクションと無縁なのです。

 経済学には「パレート最適」という概念が出てきます。これは、資源を最も有効に配分できる状況を理論的に解き明かせるもので、厚生経済学(経済学厚生もしくは経済的福祉を分析の対象とする経済学)で特に重要とされる原理です。この理論を提唱したのがムッソリーニと親しかったパレートなのです。しかしパレートは同時に人間の非合理的な力も見逃していませんでした。だから、国家を統治するには、力を持つエリートが民衆を保護・支配する必要があると考えました。 

 つまりパレートの思想は「国家エリートが力を持って、民衆に再分配を行う」様な福祉国家へと接続するわけです。

戦闘ファッショの結成

 第一次世界大戦は、イタリアも参加した協商国側が勝利しました。ところがイタリアは、先頭成果を十分にかと獲得することができなかった。そこからファシズムへとつながるイタリア史の大きな流れを、世界史の教科書で確認してみましょう。

 ”イタリアは戦勝国であったが領土拡大を実現できず、講和条約に不満を持った一方、国民は戦後のインフレーションで生活を破壊され、政府への不信を強めた。1920年、社会党左派(のちのイタリア共産党)の指導で、北イタリアへの工業地帯を中心に、労働者が社会革命を求めて工場を占拠し、また貧しい農民も各地で土地を占拠した。しかし、これらの運動が失敗すると、地主・資本家・軍部などの支配層の反撥が始まった。この流れに乗じて、ムッソリーニ率いるファシスト党が勢力を拡大した”

 

 イタリアは戦勝国であるにも関わらず、要求した領土を得ることができず、国民を失望させました。社会党も勢力を拡大したものの、革命を実現するような力も意志も欠けていた。ムッソリーニにとっては、いよいよ機が熟したわけです。ビルピッタによれば、ムッソリーニは参戦論を通して「社会主義」と「民族主義」を合流させたと言います。つまり「プロレタリアートの国際的な連携とは異なる革命運度」を生み出したのです。

 

 彼の革命とは、一つの階級の台頭ではなく、国民全体を巻き込む事業として、より正しい社会の構築を目的にし、かつ、世界の資源分配を視野に入れて国家を強化させ、全ての階級の生活水準を向上させることであった。この発想を抱きつつ、彼は終戦間もない政権獲得への道を歩みだしたのである。

 こうしてムッソリーニは、1919年3月にミラノで「戦闘ファッショ」を結成し、社会党への攻撃を開始しました。彼は階級闘争を否定し、労働者強調を主張した。既にここにファシズムの重要な論点が現れてきます。先の教科書の記述にあるように、1919年~20年は「赤い二年間」と呼ばれるほど、労働者のストライキや農民による大地主の農地占拠が頻発し、社会主義革命への不安が煽られた時代でした。政府や議会も有効な対策をとれない。そのような中で戦闘ファッショは武力を用いて、社会主義革命との抗争を繰り広げていきます。

ムッソリーニ政権の樹立

 機運が変わったのは、1920年夏に起きた、社会党が主導する工場占拠からです。労働者は、この工場を拠点に革命第一歩を期待したのですが、結果として社会党と労働組合は政府と妥協します。これが労働者を大きく失望させることとなり、これ以降イタリアではファシスト運動への期待が膨らんでいきました。

 1922年5月に行われた総選挙で、戦闘ファッショは国会の議席も獲得しました。同年11月、ムッソリーニは政権獲得計画を積極的に推し進めていきました。

選挙法の大改正

 

 「1922年のローマ進軍をきっかけに、イタリア史上最年少の39歳で首相に任命されたムッソリーニは、どのようにしてファシズム独裁政権を築いていったのか」についてです。当時のイタリア国民はムッソリーニ首相に対して何を望んでいたのか。ここもビブピッタ著の「ムッソリーニ」で確認してみましょう。

 

”国王との会見後、ムッソリーニはホテルに入り、部屋のバルコニーから喝さいを叫ぶ群衆に「自分の目標は内閣を組織するに留まらず、決断力がある政権を創出することにある」と告げた。国民が望んでいたのはまさにそれであった。4年間で5回も内閣が交代した大戦後の不安定な状況や無力な政府を生んだジョリティ流の妥協政策も失望した国民は、権力を駆使して政策を実現する能力のある政権を待ち望んでいた”

 ムッソリーニは首相就任後間もない1922年2月に「ファシズム大評議会」を設立し、指導権の強化を推し進めました。ファシズム大評議会とは、ファシズム時代のイタリア王国における、国家の最高決定機関の事です。このファシズム大評議会により、党の指導の中央集権がさらに進められました。またムッソリーニは、さらに独裁政権を強めるべく1923年に選挙法を大きく改正しました。そして翌年に総選挙を実施します。

 ”ムッソリーニ内閣は好評を得たが、武力の行使の結果として生まれた政権の正当化が必要であった。そのために、まず政府に安定した基盤を与えるために、選挙で25パーセント以上の得票率を得た第一党が議会の議席の四分の三を獲得する、という特別多数選挙制度を導入したから議会を解散し、1924年に総選挙を実施した。その結果、ファシスト党を中心とした連立勢力の得票率は65%に上り、三百七十四議席(うちファシスト党二百七十五議席)を獲得した”

 その圧勝によって、ムッソリーニは安定した政権基盤を獲得したかのように見えました。ところがその直後にムッソリーニは絶対絶命のピンチに襲われます。それが1924年5月におこった「マッテオッティ殺害事件」でした。

 マッテオッティ殺害事件とは社会党の国会議員ジャコモ・マッテオッティが1924年6月10日の午後にローマの自宅を出た後ファシスト活動家に誘拐され、その後遺体となって発見されたという事件です。マッテオッティは強硬派の社会党書記長で、ムッソリーニ政権に対して、強く反発していました。彼は議会でファシスト党が暴力的な活動を行ったとして糾弾し、選挙の無効化を訴えていたのです。そのような状況の中、マッテオッティがファシスト活動家に殺害されてしまいました。ムッソリーニ自信は、社会党との対話路線を示していたので、この殺害事件に関与していたとは思えません。しかしメディアは野党を支持し、政権に強い非難の声が浴びせ続けましたムッソリーニ政権は強い打撃を受け、崩壊寸前に陥ってしまったのです。窮地に陥ったムッソリーニですが、野党は結局彼を追い詰めることができませんでした。野党議員は国会から引き揚げ、国王にムッソリーニ解任を求めたのですが、肝心の国王はその意思がなかったのです。その結果、野党は行き詰まり、有効な攻撃を加えることができなくなりました。

組合を基盤とした国家国家構想

 独裁体制のもと、ムッソリーニは組合組織を国家の基盤に据えました。その中枢的機関となったのが、1926年に設立された「共同体省」です。この共同体省について、第一章でも紹介した新明正道「ファシズムの社会観」の説明を見てみましょう。

 

 ”ファシズムの共同体省国家において、その眼目を成すものは国家の組合に対する支配及び労働と資本の協調である。この目的はそのあらゆ法制を貫通している。しかし、特にこの要請に基づいて労使関係統制するために、ファシズムは、指導的機関として、共同体省を設立した。これは共同体国家の中枢機関たるべきものである」

 1929年の大恐慌によってムッソリーニは従来の資本主義的経済、政治体制は破綻しているとの確信を得た。彼は、新しい社会体制に相応しい解決法を追及しなければならないとの考えから、ファシズムを資本主義と社会主義を一挙に否定する「第3の道」として主張したのである。

 私は「ムッソリーニは経済学者パレートから影響を受けている」ことを指摘しました。そこでも触れましたが「パレート最適」という理論は、簡単に言うと「有限である資源(財)の効用を最大化」することです。ただし、誰の効用を挙げるにはどのように資源配分を変えようとも、他人の効用を下げなければなりません。したがってパレート最適の考え方に従うと、資本主義が暴走して格差や貧困が拡大した場合、国家が経済に介入して社会的公正さを取り戻すべきであると言う発想につながるのです。また、この発想は手厚い社会福祉政策の実施にも影響を与えます。実際、ファシズム政権下のイタリアでは、労働賃金の保証や健康保険、有給休暇といった社会福祉政策が次々導入されていきました。他にも、観劇やハイキング、スポーツ活動など国民に提供すると組織的な余暇運動がおこなわれ、国民統合に大きな役割を果たしていきます。もう一点、この時期にムッソリーニの業績として重要なのが、カトリック教会と和解したことです。これを「ラテラノ協定」といいます。

 ラテラノ協定は1929年にローマラテラノ宮殿でムッソリーニと教皇庁が結んだ協定です。教皇庁とイタリア王国は長く断交状態でしたが、このラレタノ協定により、関係を正常化させました。ムッソリーニはヴァチカンを国家として、またカトリックがイタリア唯一の宗教であることを認め、一方、教皇庁もムッソリーニ政権を承認したのです。現在のヴァチカン市国は、このラテラノ協定によって成立しました。このように、ムッソリーニは第一次世界大戦後のイタリアを安定させ、資本主義や社会主義とは異なる政治経済体制を創出することに成功します。こうしたムッソリーニが残した政治的・経済的な成果を見ると、ファシズムが同時代の人々に評価されたのもうなづけるでしょう。

教育者ムッソリーニ

 ムッソリーニがこうした数々の功績を残すことができたのは、彼がイタリア国民から圧倒的に支持されていたからです。では「なぜムッソリーニは、カリスマ的な人気を集めることができたのか。ここで少し彼のパーソナルな側面について触れておきましょう。ビルピッタは「ムッソリーニには”教育者の素質”が備わっていた」と指摘しています。ムッソリーニの母親は小学校の教師で、父親もまた社会主義の活動家として大衆の教育に対して意識的でした。ムッソリーニ自信も師範学校を卒業しています。

 ”政治活動に当たっても、彼はいつも教育の面を重視した。社会党時代は、階級闘争もゼネストも、大衆の教化のための手段であると彼はみなしていた。第一次世界大戦参戦の際にも戦争経験をプロレタリアートの教として重視し、その後は戦争を国民全体の教育の場として考えた。さらに、政権を取ってからは国民全体の教化の野心的な事業にも携わった。全国民を巻き込む大衆行動、ファシスト党の儀式、レトリックの強調、攻撃的な政策、皆イタリア人を鍛え、偉大な民族に仕立てるためであった。彼の政権が独裁体制を選んだことも、この点から解釈できる。全国民の教師として、自分自身を模範にして「イタリア人」を形成しようとした。そして、民族としての誇りの回復を願っていたイタリア人は喜んで、自分たちは古代ローマ人の子孫に相応しい国民に仕立てようとしたムッソリーニの生徒になった。”

 この記述からわかるように、ムッソリーニは国家を「学校モデル」としてとらえていました。ムッソリーニ自身は大衆を蔑視していたので、大衆そのものが政治的な役割を果たせるとは思っていませんでした。しかし、彼は民族共同体の完成のためには大衆が台頭してくる必要があると考えたのです。そのためには、大衆の精神的、知的な水準を引き上げなくてはならない。そして、その役割はエリートが引き受けると言う「エリート主義」がムッソリーニの信念でした。

イタリアファシズムの終焉

 第二次世界大戦によって、イタリア・ファシズムは解体していきます。イタリアは、1940年に第二次世界大戦に参戦しましたが、敗色が濃厚になってくると、軍部やファシスト党からムッソリーニを批判する声が次第に高まってきました。そして1943年7月久しぶりに開催されたファシズム大評議会に置いてムッソリーニがも全権限を国王に返還するという提案が採択されました。その後、ムッソリーニは国王に首相解任を告げられます。国王の面談の後、ムッソリーニは「カラビニエリ(憲兵)」に逮捕されました。

 

 ”ムッソリーニが表に出ると玄関前には待機するはずだった自分の車が数十メートル移動させられていることに気付いた途端、憲兵が現れて国王から彼を保護する任務を受けたと伝えた。「そのようなことは必要ない」とムッソリーニは叫んだが、「ドゥーチェ!私は命令を実行しなければならない」と大尉は反論した。「それでは、ついてきてください」とムッソリーニは自分の車で向かおうとしたが、退位は彼を抑えつけて「いいえ、ドゥーチェ”私の車で向かわなければならないのです」と言った。そしてそこに駐車してあった赤十字の救急車の方へ彼を導いたムッソリーニは躊躇しつつ乗り込んだ。安全処置であると思っていたが、実際は彼は逮捕されたのであった”

 その後、ヒトラーがムッソリーニを救出し、北イタリアに「イタリア社会共和国」を樹立させました。イタリア社会共和国は、1943年9月から45年4月まで存在したイタリア・ファシズム政権として機能した国家です。一方、ムッソリーニの後のにイタリア王国の政権を取ったピエトロ・バドリオは連合国に対して無条件降伏し、ドイツに宣戦布告しました。いわば至りは分裂場外に陥ったわけです。

やがて、ドイツの敗戦が明らかになってくると、レジスタンスが武装蜂起し、イタリア北部を開放することに成功します。そして1945年4月、ムッソリーニはパルチザン(一般市民によって組織された非正規軍)たちに捕えられ、銃殺されました。ムッソリーニの遺体は、ミラノのロレート広場に、他のファシストらと共に逆さ吊にされた。ここに置いてイタリア・ファシズムの時代は完全に終わりを告げたのです。

 はたしてファシズムとはどのような思想なのか、またその内在的なりろんはどのようなものなのか。こうした問いに正面から向き合っている本は、現在の日本ではほとんどありません。しかし、ファシズムの内存論を理解しなければ、「なぜファシズムはこれほど多くの国に広がっていったのか」という理由を解き明かすは不可能です。事実、ポーランドのユゼフ・ピウスツキによるファシズム政権や1933年に設立されたスペインのファランヘ党、また1940年から41年まで政権を獲得したルーマニアの鉄衛団などファシズムの運動が活発化しました。

ファシズムというレッテル張

 ファシズムの周辺には、ファシズムと混合して語られる概念があります。それは、「自民族中心主義」「純血主義」「超国家主義』「全体主義」「独裁主義」といった思想や運動です。日本人の多くはこれらを一括りして「ファシズム」と捉えていますが、中身はそれぞれ微妙に異なります。たとえば自民族中心主義は、自民族の存在や利益、優越性を、多民族をは自助することによって確保または増進しようとする運動ですし、超国家主義は国家を人間社会最高の組織とみなし、個人よりも国家に絶対の優位を認める考え方でス。単一民族国家神話のもとでは自民族中心主義と超国家主義とはイコールで結ばれますが、実際には単一民族国家など存在しません。少数民族が力を持つ多民族国家では民族国家という発想は紛争の火種にもなりかねません。このような違った概念を多くの人たちは「ファシズム」という言葉でい一括りにして絶対悪として議論の対象にすらしません。しかし、ありとあらゆるものファシズムのレッテル張りをするような粗雑な理解では、20世紀ファシズムが持つ魅力との危うさ、そしてファシズムが犯した過ちを正確に評価することはできない。そこで本章では過去の優れたファシズム論を紐解きながら、ファシズムという思想のエッセンスを考察していきます。

 まず参照したいのがイタリアの哲学者であるジョヴァンニ・ジョンティーレのファシズム論です。ジョンティーレは、1922年から24年にかけてイタリア・ファシスト政権の文部大臣として教育制度の改革を遂行した人物です。ジョンティーレのファシズム論「ファシズムの哲学的基礎」は未翻訳ですが、「甘世紀思想⑧全体主義」(河出書房)に、社会学者の加田哲ニがこれらを要約した「ジョヴァンニ・ジョンティーレ」という小論が収録されています。この小論を参考にしながらイタリア・ファシズムの論理的支柱であるジョンティーレのファシズム思想を見ていきましょう。論文の冒頭で加田は次のように述べています。

 

 ”ファシズムが一つの人生に立脚した社会観であることは否定しえないところである。ムッソリーニは、「根本的に人生観ではない国家観」は存在しないことを前提とし、ファシズムを理解するには「精神主義的体系と言われるその全般的人生観」が把握されなければならぬことを主張している。ファシズムにあっては、世界は、全ての人間が、自己自身のためのみに存在する個々人たる皮相な物質的世界ではない。またファシズムにおける人間は、同時に国民であり祖国を有する個人であり、一個の現実的伝道の中に生きる道徳的法則ですらある。”

 難しい書き方をしていますが、言っていることは単純です。「人間はバラバラに生きているのではない。また、国家も、個人が社会契約をして成立するものではなく、一人一人の人間と一体である」ということです。昔、生活協同組合の組合証に「一人は万人のため、万人は一人のため」と書いてありました。この「万人」を国家に置き換えて、「一人は国家のため、国家は一人のため」とすれば、ファシズムのスローガンに代わります。人間は社会のために能動的に生きなければならない。こうした人生観にもとづいて、ファシズムは組み立てられているわけです。

塹壕体験から得た戦闘精神

 ムッソリーニは経済力のない国は弱い国家だとし、国家の経済力を強くすることが重要だと考えました。では、いかにして国家の経済力を強くするのか。それは「国民全員がよく働く」ことでしか、成しうることはできないと言うのです。そして、そのために必要なのは、国民全員が「戦闘の精神」で生きることだとムッソリーニは言っています。たとえば私たちが今、戦争で最前線に送られたと考えてみましょう。自軍が勝てば生き残れますが、負ければ殺されるか、もしくは捕虜になって屈辱的な思いをする。そういった状況に置かれた場合、人間は「今、何ができるか」ということに、最大限の知恵を働かせるようになります。また、同時に戦友を助けるという協力的な精神性も醸成されるでしょう。このような「戦闘の精神で人生を生きよ」というのが、ムッソリーニ流ファシズムの人生観なのです。こうした考えには第一次世界大戦でのムッソリーニの自身の戦争体験が反映されていると考えられます。

 すべての国民は知的かつ道徳的な観点から、家庭や社会的な団体内で協力し合う存在だとムッソリーニは言っています。そして、民族共同体としての連携意識が高まれば、国家は強くなる。そこで重要になってくるのが、戦闘精神を日常で発揮することなのです。それはとりもなおさず、「政治、経済、芸術、宗教、科学と言ったあらゆる分野で、国民は協力しながら国家のために働かなくてはならない。」という論理につながります。

田辺元の「歴史的現実」

 ファシズムは次のように考えます。人間は個人の私的な利害よりも崇高な理念と関係することで、生きる意味が与えられる。家族や社会的な団体、国民の一員として協力しながら国家のために全力を尽くすことで、歴史形成が参加できる。そのような歴史的な使命に参加できない人間は、存在自体に意味がない、と。以上の事から、ファシズムは個人主義には徹底的に反対します。

 だからこそ、私たちはファシズムの論理を理解しなければならないのです。ファシズムについて学ぶことは「生きることは死ぬことだ」「悠久の大義に殉じたものは永遠に生きる」という危険思想に対する予防接種をすることだと言っても過言ではありません。

 ファシズムの歴史的前提を説明していますが、その中で特に重点的に取り上げるのが、イタリア統一運動の代表的指導者であるジュゼッペ・マッツィーニです。マッツィーニは、大学時代に秘密結社カルボナリ党に加わったのちに、1831年にイタリア統一と共和制樹立をスローガンとする青年イタリアを結成しました。カミッロ・カブール、ジュゼッぺ・ガリバルディと並ぶ「イタリア統一の三傑」の一人として知られる人物です。マッツィーニは、政治を「道徳」「宗教」「すべての人生観」と不可分で統一的なものだと考えました。道徳的・宗教的・哲学的教養が分かれている政治家では多くの人の心を動かすことができないからです。そして、こうした不可分で統一的だと言う考えは、ファシズムの理念に関しても同様だと加田は言います。では、ファシズムはどのような意味で統一的な思想なのか。



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